浄土や地獄は実在するのか

「浄土や地獄は、本当に実在するのか」と、尋ねる者に対して、
「あると信ずる人にはあり、無いと思う人にはない」と、答える人が多い。
然し、こんな無責任な返答はない。問者を愚弄する以外の何ものでもない。
古来、あるから信ずるのか、信ずるからあるのか、どちらが一体先なのか、論じられてきた。
何らかの形で実在するから、私達は、それを信ぜざるを得ないのだ、と言うのは存在論の考え方である。
反対に、信ずるから、ものごとがあるのだ、と言うのは観念論者の考え方である。どちらが本当なのか。
私は考える力、信ずる働きが物事と我々を結びつける媒介役をし、人間を万物の霊長たらしめたのだから、観念の力を徒らに軽視したり、否定したりはしないが、信ずるから、浄土や地獄があるのだ、という観念論には、絶対に承服できない。
実在するからこそ、信ずる心も当然起こってくるのであって、信じたから実在するのではない。
心だけで、何でも作れると思うのは、観念論者の夢である。浄土や地獄は、そんな影や幻の如きものではない。
人間の、ささやかな信や疑によって、その存在が左右されるというようなことになれば、仏説は虚妄になり、体験にもあわない。
金剛信に徹して、解脱の光輪の慈照を蒙れば、我らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。
浄土や地獄の実在を理解してから、信心獲得するのではない。この信心のうちに、浄土も阿弥陀仏の実在を認めることも、地獄の実在を認めることも含んでいるのである。
我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、仏智を諦得すれば、鮮やかに知られる。
人間が信ずるとか、信じないとか、あると思うとか、無いと考えるとか、いうような主観的な意識を超越して常住する。
浄土や地獄の実在も、この世に浄穢苦楽の別あるが如く、来世にも、最も幸せな世界と、三悪道のような悲惨な世界があるということは、当然である。
それを、あるが如く、無きが如く言うのは、信心決定していない証拠である。